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なぜ今、戦艦大和なのか。

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 「戦艦大和」。 軍事に詳しくない人でも、日本人なら誰でもこの戦艦の名前を一度は聞いたことがあるのではないだろうか。 このブログに書くには、少し方向性が違う気がしないでもないが、普段はあまり興味がなく、大和に接する機会がない人にこそ、ぜひ読んでほしい。 そして、日本人として、最低限知っておいてほしいと思い、今回筆をとることにした。そういう意味で今回は大和に詳しい人には特別目新しい話でもなく、また、それほど知識のない自分がこういう話を書くなど、とても恥ずかしいことである。 それほど、大和に関しては研究が盛んで、人々の興味が尽きない分野である。

 さて、今年は戦艦大和の当たり年だ。 終戦60年目の節目の年ということもあるが、小さなものは、プラモデル、また、食玩と呼ばれる大和をぶつ切りにしたような模型が売り出されてヒットしたり、出版業界ではCG(コンピュータグラフィックス)による大和の形状の再現本が出版されたり、放送業界ではNHKの「その時歴史が動いた」でも取り上げられ、ここでもCGを駆使した映像を見ることができた。 また、インターネットの世界でもgoogleで「戦艦大和」で検索すると星の数ほどのサイトがヒットしたりする。(今、実際やってみると38万4千件ヒットした)  

 また大きなものでは戦艦大和の故郷、広島県の呉市に「大和ミュージアム」呉市海事歴史科学館)がオープン。(なんとここには大和の1/10の模型、全長26.3メートル!(あまりにも巨大なので、模型製作会社ではなくて、本物の造船所が製造)が展示され、平日でも多くの入館者があると聞く。 更にこれは今から楽しみにしている人も多いと思うが、「男たちの大和」のロードショーが12月に控えていて、つい、最近撮影がクランクアップしたばかりだ。

 このように、今年は戦艦大和の話題には事欠かない。では、一体なぜ、これほどまでに戦艦大和は、日本人の心と共に生き続けるのだろうか。

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 戦艦大和は、昭和12年11月4日に呉海軍工廠において起工。開戦直後の昭和16年12月16日に海軍に引き渡されて竣工した。 94式45口径46センチ砲3連装、世界最大の主砲塔三基を装備。 攻撃も防御も当時の最先端技術を駆使して造船された戦艦である。 大きさは全長263メートル、丁度、鋼鉄の東京駅が海に浮かぶような巨大なもので、建造費は当事の金額で約1億4千万円(国家予算の3パーセント)というとてつもない国家的プロジェクトであった。 

 しかし、これほどまでに期待された戦艦大和であったが、竣工した時には大和のような大艦巨砲主義はすでに過去のものであり、時代はすでに航空兵力が主役となりつつあった。 よって、その武装兵力に見合った活躍の場にはなかなか恵まれず、悪化する戦局に対することもできず、ただその巨体をもてあますことが多かったのである。 

 昭和19年6月19日、マリアナ沖海戦。 その時初めて大和の主砲は実戦で火を噴いたが、目標は敵艦船ではなく、対艦載機であり、わずか27発を撃ったにすぎなかった。 その後大和は10月23日のレイテ沖海戦に参加、24日、シブヤン海で敵艦載機に応戦。 そしてついに、翌25日、サマール沖で偶然敵護衛空母艦隊に出くわし、敵空母に向かって水上射撃を開始。 敵空母に損傷を与えたが、これが最初で最後の水上射撃であり、大和唯一の至福の時であった。(大和は大艦巨砲主義のもと、生れた船であった。ゆえにこの対艦水上射撃こそが、その目的であって、日夜の猛訓練はまさしくこの時のためであった)  しかし、この海戦において日本海軍は「武蔵」他多数の艦船を失い、連合艦隊は事実上壊滅した。

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 大和はその後、沖縄に上陸した米軍に対して、水上特攻として出撃。 それは浅瀬に乗り上げて陸の砲台となれとの命を受けた、生還を望むべくもない、まったく作戦とは言い難いものである。

 1億総特攻の先駆けとなれ、、、、。  大和はもはや無用の長物と化しており、その死に場所を求めての特攻であった。  その時、乗組員は自分が特攻する意義、自分の存在意義について深く考えた。 そして、ある乗組員の以下の有名な言葉が残っている。 これこそ、今わたしたち日本人が心して読み、重く受け止めて、深く胸に刻まなければならない言葉である。  

 「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。それ以外に、どうして日本は救われるか。今、目覚めずしていつ救われるか。俺たちは、その先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか。」(『戦艦大和ノ最期』より著者吉田満)

 大和は昭和20年4月6日に出撃したが、翌7日に米艦載機386機による波状攻撃を受け、爆弾6発、魚雷10本以上を受け、午後2時23分、九州坊ノ岬沖90海里の地点で2498名の乗組員と共に海底深く没した。

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 大和、その後、、、。 日本の敗戦により、大和の膨大な図面、資料はかたっぱしから処分、また散在した。 しかし、日本が戦後、経済成長を遂げ、造船の分野で世界的に確固とした地位を築いたのも、この大和の造船技術の遺産である。 このように技術的には大和の遺産を引き継いではいるが、わたしたちは、当時の乗組員、またご遺族の方々のことも忘れてはならない。 また、このように再び内地の土を踏むことなく、海に散っていった方々は大和の乗組員だけではなく、全ての沈没した艦船の乗組員、またそのご遺族がおられるのだ。

 日本民族の血と汗と技術の結晶として、圧倒的な敵の矢面に立ち、全力をふるって戦い、ついに刀折れ矢尽きて倒れた。その最後の悲しさと雄々しさが「サムライ」であり、日本民族の琴線にふれるのであろう・・ 文春文庫「ドキュメント戦艦大和」より引用

 さて、皆さんはどのように感じただろうか。 中にはこれは悲劇だ。撃沈されるとわかっていながら戦いに出る。 こんな馬鹿なことをしなければ、多くの尊い命が失われずにすんだのに。当時はそれを言葉にすることも許されなかった。 本当は彼らは死にたくなかったのだと、、、、。  

 しかし、わたしはこう思う。 死にたくなかったんじゃない。 命がおしいわけじゃない。 この自分の命を捧げるだけの動機付けがほしかったんだ、、、と。 自分の死は決して無駄ではない。 彼らが自分の命を犠牲にして、後世の日本人に日本を託したとしたら、、、。 わたしたちは、今、彼らの思いをしっかりと受け止めて、きちんと生かしているだろうか。 


 追伸、、、上記の文章をブログ投稿のために書いてから、数日たちました。 何回か読み返してみて、今、ふっと気になることを思い出して、あわててgoogleで検索をかけています。 すると、ありました。 戦艦大和元乗組員 八杉康夫さんです。 彼は大和沈没の時の数少ない生存者で、全国を回り、多くの講演活動をされているとのこと。 わたしは彼の講演会を直接聞いたことはないのですが、NHKの番組インタビューでの彼の言葉が脳裏によぎったのです。  「名誉の戦死なんてとんでもない。 そこは地獄です。 これが現実かと思いました」。 

 その言葉には、お国のため立派に死んでみせる。それが名誉だ、一つの美学だと、信じていたのに、いざ見せられた現実は、大和沈没の時の人々の修羅場であり、他人よりも自分だけが助かりたいとする人間の醜さ。 「私的な潔癖や徳義にこだわって我々はなんて愚かなことをしたのだ」、、という強い後悔の思いが感じられたのです。

 わたしはこの八杉さんの言葉を思い出し、彼が理想と現実の狭間で苦悩された事を知り、いろいろ考えさせられて、本当にわからなくなってしまいました。 今回皆さんはどう思われましたか?。 辛口のご意見など、コメント欄の方に宜しくお願いいたします。

 しかし、これだけははっきりと言えるのではないでしょうか。 わたしたちは過去に学ばなくてはならないこと。 そして彼らの死を決して無駄にしてはいけないこと、、、、。 これからも考えていきたいと思います。 



写真は最近CMが流れているディアゴスティーニの大和のキット
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by CUBE_text | 2005-09-14 22:08 | 戦艦大和
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